My Lost Dream

13ヶ国18都市を駆け抜けた2ヶ月間のお話。

外出自粛生活

 

Day4:Siberia 

 

 

 

5月14日、前回更新から1月以上が経過している。桃色の街並みが緑色に移りゆく間に、私たちの生活も大きく変わった。新型コロナウイルスの感染が拡大し、ついに外出すらできない世界になってしまった。街からは人が消え、賑わいを見せていた大衆居酒屋はシャッターが閉まっている。私も影響を受けていないわけではなく、この春から晴れて社会人となったというのにまだ一度も出社できていない。いわゆるテレワークというやつだ。

 

 

テレワークとは非常に快適な制度である。朝はゆっくり起きれるし、満員電車に揺られることもない。一番の利点は深酒ができることだろう。だが外出禁止ともなると話は別だ。行動は制限され、時間を持て余す日々が続いている。暇すぎてストレスを感じる人も多いだろう。 

 

 

現状私もその1人である。だが思い返せばつい5か月前にも同じシチュエーションを経験していた。今よりももっと過酷で理不尽な日々だった。

 

 

 

 

-結局あれ以降家族とはあまり話すことができなかった。こちらがGoogle翻訳で質問しても、彼らのロシア語での返事を理解してあげることができなかったのだ。一方通行の会話。私は気まずさに耐え切れず一目散にベッドへ退散した。列車と共に再び静寂な時間が走り出した。

  

 

 

私の乗る2等車には扉がついており、個室のようになっている。日中は扉を開け、夜間は遮音のため扉を閉めるコンパートメントが大半である。だが私のコンパートメントは階下のご家族により常時閉じられていた。3畳ほどの狭い空間、当然空気は薄くなる。外でいくら雪が降ろうが氷点下を下回ろうが、部屋は汗をかきそうなくらい暑い。「扉開けてもいい?」何度もそう聞こうと思ったが、その度に先ほどのロシア語攻めが頭をよぎった。

 

 

 

葛藤すること2時間、何とかひねり出した解決策はトイレであった。部屋を出る際さりげなく開けっぱなしにする。これで最低限の換気は可能だ。そう考えすぐに実行へ移した。5分後、部屋に戻ると当然のように扉は閉まっていた。階下のご家族は何としても扉を閉めたいらしい。さらに扉を開けるとそこには真っ暗な部屋が待っていた。どうやらこのわずかな時間で光まで失ってしまったらしい。読書灯は各ベッドに備えられているが部屋の電気のスイッチは下段の壁にある。私は部屋の扉どころか電気の主導権もロシア人に掌握されていた。

 

 

 

暗く狭く熱い部屋でただ時間が流れるのを待つ生活。先のことを思うと不安が頭を締め付けた。

 

 

 

翌朝、汗だくの裸体がベッドの上段に横たわっている。いくら室内とはいえここは冬のロシア。上裸で寝ることになろうとは夢にも思わなかった。

 

2日目の今日も扉は閉まっている。ここまで徹底された密閉にはさすがの小池百合子氏も全裸で発狂する。梯子を下りると階下のご家族は優雅に昼食をとっていた。車窓に移る父の涼しげな表情は、まさに私たちの温度差を表しているよう。私は歯磨きセットを手に部屋を出る。おはようのあいさつはない。廊下から見える外は相変わらず雪の世界。見飽きた雪景色を新鮮に感じるのが皮肉のように思えた。歯を磨き汗を拭くと、一呼吸おき部屋の前まで戻る。

 

 

 

おそらくこの列車の扉は乗客の心と連動している。期待に胸躍らせていた初日の扉はもっと軽かったはずだ。今はその倍くらい重い。力を振り絞りなんとか扉を開ける。気まずいので家族の方は見ないよう梯子に手をかけるが、ふと窓側に視線を送ると父と目が合った。そして彼は間髪入れずに私を手招きする。昨日と全く同じ光景、時が戻されたのかと思った。

 

 

 

誘われた手前断れないのが日本人の悪いところ。空いている父の隣に座る。扉関係でギスギスしていると思ったがどうやらそれは私だけ。いい意味で無神経というか、、まあ残り6日間を同じ部屋で過ごす一家と冷戦状態になるくらいなら、このくらい無神経な方が有難いのかもしれない。そんな風に思っていると、父はテーブルに置かれたタッパーを開け、中に入っていたサラミを食パンに1枚載せた。そして私にパンを手渡し、もっと乗せろというジェスチャーを私にしてみせる。私は戸惑いつつ2枚追加で載せ、家族と共にパンをほおばった。

 

 

美味しかった。ただひたすらに美味しかった。味は日本のスーパーで買うサラミと大して変わらないのだが、それ以上に美味しいと感じたのはおそらく、この優しさが調味料となったからであろう。綺麗事に聞こえるのも無理もない。だがこの時の私は心の底からそう思った。

 

 

言葉も通じない日本人を食事に招き、数少ない食料を分け与えてくれる純粋な優しさ。簡単なように聞こえるが逆の立場を考えると容易くはないことが分かる。一方の私は初めから相部屋で過ごすことを分かっていながら、他人のことなど考えもせず自分の食料だけを蓄え、コミュニケーションを取ることすら諦めかけていた。それどころか扉のことで階下のご家族のことを強調性のない無神経野郎とすら思っていた。たかがパン1枚、されどパン1枚。サラミパンによって家族の優しさを味わされた。そして同時に自身の心の狭さを深く恥じた。

 

 

せめて感謝を伝えたい。そう思った私はポケットからスマホを取り出す。実は昨夜、電波が通った一瞬のタイミングでGoogle翻訳のロシア語をオフライン保存し、さらにキリル文字のキーボードもダウンロードしていた。次こそは会話を成立させたい、わずかながら家族と仲良くしたいという想いが残っていたのだ。

 

私が質問を書き込み、ロシア語翻訳する。家族に画面を見せ、キリル文字のキーボードに設定を変え、打ち込んでもらう。それを日本語へ翻訳する。

この一連の動作が、家族と意思疎通を図る唯一の方法であった。時間はかかるがこの方法により、我々は初めてお互いの情報を共有することができた。

 

 

 

小一時間彼らとコミュニケーションを取り、得た家族の情報は、

・名前は父がカーシャ、母がスーシャ、娘がコーリャ。

・父はロシア軍の軍隊さんである。(部隊は忘れたがスペツナズではないらしい)

・休暇を家族と過ごすために母と娘と共に、祖父母の暮らすモスクワへ向かう。

・長い兵役のため家族に会うのは久しぶり。

 

ということだった。他にも私の旅の話や互いの国の印象など、私は彼らとの初めての会話を大いに楽しんだ。お互い無言で画面を見せ合うのは無機質にも思えるが、何とも言えない和やかな空間がそこには確かにあった。

 

 

去り際、食事のお礼にと日本から持ち込んだ抹茶味のキットカットを3つバックパックから取り出し家族へと渡す。私が分け与えられる唯一の食料であった。チョコは暑さで溶けていた。

 

 

 

扉のことは敢えて話さなかった。もちろん眠れないほどの暑さは耐え難いが、久しぶりの一家団欒を私が壊してはいけない気がした。溶けたキットカットで気づいてくれればというわずかな希望の光は、娘の胃の中へと消えた。だがもうイラつくことはない。私はここで家族と共に生きていくと決めたのだ。1つの狭い部屋を異なる文化を持った家族と共有する、時には我慢や支えあいも必要だ。その我慢が暑さなら甘んじて受け入れよう。そう心に決めたのだ。

 

 

 

-ステイホーム-

 

現在の自粛生活は、あの日々に比べたらなんてことない。同じ言語を話す家族、内容の分かるテレビ、自由につながるネット。これだけあれば十分恵まれている。そう感じるのは紛れもなく、シベリア鉄道異質な空間での経験があったからこそである。

 

それでも少し、あの部屋が、あの日々が恋しく思えるのは

孤独の中に差し込む無償の優しさが

他の何にも代えられぬ大切な感情を生み出してくれたから。

 

 

そしてこの後発覚した家族の秘密により、

私はさらに胸打たれることとなる。

 

 

 

今日も列車は絶えず進んでいた。

コーヒーブレイク

Day3:Siberia



5分ごとにスマホを見ては、電波が入っていないか確認する。アンテナが立つことは滅多にない。



ロシア家族が部屋に来て2時間ほど。ベッドメイキングに疲れたのだろうか、家族揃って昼寝を始めた。未だに会話は交わせていない。それもそうだ。ロシア人は英語が話せないとは聞いていたが、まさか"ハロー"すらスルーされるとは。コミュニケーション力が絶望的に欠けている私としては出鼻どころか顔面を殴打されたような気分であった。



これからどうして付き合っていこうか。そんな不安への対策を漠然と考えていると列車が駅に着いた。すると父は家族を起こし、みな上着を着始める。こんな短時間の乗車で2等車を取ったのか。あまりの下車の速さに唖然としながらも、ベッドの上から”バーイ”と再び声をかける。すると父はこちらを一瞥し、荷物を持たずに家族と共に通路へ出た。どうやら下車したわけではなく、休憩のために外へ出ただけのようだ。

昨晩から一度も外の空気を吸っていなかった私も、この機会に外へと繰り出す。廊下に張り出されている時刻表と時計を見比べ、今ここがハバロフスクだということ、そして30分の停車時間があることを理解した。

パスポートとチケットを手にホームへ降り立つ。久しぶりの新鮮な空気を体内に取り込み、大きく伸びをする私。気温はマイナスだが空には雲の一つもない。そんな澄み切った空を眺めていると、視界を一筋の煙が遮る。目線を少し下げると同室の父が煙草を吸っていた。妻に娘を預け、私と同じように空を眺めながら1人気持ちよさそうに一服する父。私はそっと彼に近づき、勇気を振り絞り再び”ハロー”と話しかけてみる。これで無反応なら、もう二度と声なんてかけてやるもんか。部屋内での冷戦を覚悟し様子を伺うと、煙草を咥えながら父は何度かうなずいた。わずかではあったものの、反応があっただけでも大きな進歩だ。私はこのチャンスを逃すまいと、すかさずスマホを取り出す。Google翻訳様のお出ましである。翻訳をロシア語に変え、”どこまで行くの?”と尋ねる。スマホの画面を向けると、彼はグッと近づきのぞき込む。そして加えていた煙草を手に取りこう口にした。





-マスクヴァ―。-




私は彼の示した場所がモスクワだと理解するのに多少の時間を要した。



そして、それが



”終点までこの家族と一緒”という事実を理解するのにはさらに多くの時間を要した。





全てを悟った時には正直絶望した。今の今まで会話はおろか、一度も笑顔を見せない家族と共に残りの6日間を過ごさなくてはならないのだ。次々に乗客が入れ替わり、様々な人との会話や交流を楽しみにしていた私としては、この鉄道旅の一番の醍醐味を失ったような気がして茫然と立ち尽くす他なかった。



少し経って乗務員が大声をあげていることに気づく。小走りで列車へ戻り部屋へと進む。列車は再び走り出した。



コートを壁にかけ振り返ると、父が私に向かって自分の隣に座るよう促してきた。窓と垂直に立てられたテーブルには立派なテーブルクロスがかかり、コーヒーや砂糖が並べられている。彼は私にグラスを渡し、スプーンでかき混ぜる仕草を見せた。一緒にコーヒーでも飲みながら話をしようと言っているように見えた。コーヒーブレイクとは名ばかりのぎこちない会話を就活で幾度となく経験してきた私も、突然の出来事に少し戸惑う。そんな私の手を掴み、父は車掌室の前に取り付けられた給湯器まで私を連れていった。彼に使い方を教わり部屋に戻ると、父はグラスに粉末を入れ、私に渡した。



熱々のコーヒーはグラスを伝い、外で冷え切った私の手を温める。
少し啜り、閉じていた目を開くと、無邪気な笑顔を浮かべる少女の顔が湯気の奥に見えた。



コーヒーに手を、笑顔に心を温められた悩める青年。



私と同じで、この家族も不安だったのかもしれない。
そう思った。



いつしか緊張は窓の外に解けていった。

期待と不安

Day3:Siberia

 

 

 

ホームに出ては再び待合室へ戻る。もう3回ほど繰り返しただろうか。

 

扉の空いた列車に出会えたのは、日付を超えた頃だった。ホームへと続く階段を降りると、各車両の前に車掌が待ち構えている。プリントアウトしたチケットとパスポートを見せると、10号車への乗車が認められる。”スパシーバ”。覚えたてのロシア語と共に車両へ乗り込む。

 

今回乗るのは2等車、扉付きの4人用コンパートメントだ。幸い部屋にはまだ誰もいない。私は右の上段のベッド。他の乗客が乗り込んでくる前に、シーツや枕カバーをセットし、荷物を棚に押し込む。部屋にはコンセントが2つしかないのでこちらも確保。オセロで角を取った時のような安心を感じた

 

そうしているうちにふと窓の外を見ると、景色は左から右へ流れ始めていた。出発のシーンはGoproに収めようと思っていたのだが、プリウスにも匹敵する静かな蹴りだしに私が気づくことができなかった。

 

走り出してからしばらく経っても、別の乗客が部屋に入ってくることはない。どうやらウラジオからは僕1人のようだ。寂しい気もするが、いずれ徐々に増えてくるのだろう。とりあえず今は快適な居住環境を整えることが優先だ。部屋着に着替え、食料や生活必需品を取り出しやすい位置に置き直す。

 

 

 

シベリア鉄道は約1週間かけてウラジオストク-モスクワ間を横断する世界最長の寝台列車。もちろんノンストップではなく、大都市から田舎町まで大小さまざまな駅で途中停車する。中にはイルクーツクハバロフスクといった街で途中下車し、観光する旅人も多い。

 

しかし私は、ウラジオからモスクワまで7日間途中下車無しの列車旅をすることに決めた。おそらく数日間インターバルを取ると、再び乗車する気にならないだろう。そう感じたから7日間の修行生活に覚悟を決めた。

 

 

 

まだ出発から30分ほどだが、既に電波はない。おとなしく自分のスペースに身を戻し、横になる。一体どんな人と旅を共にするのだろうか。性別も年齢も国籍、いつ乗ってくるのかも、そもそも乗ってくるかもわからない。期待と不安からか、疲れているはずなのになかなか眠れない。結局深い眠りに落ちるまでに何度か駅に泊まったが、この晩は相部屋になる乗客が乗ってくることはなかった。

 

 

 

 

 

翌朝、カーテンから漏れる微かな朝日で目が覚めた。時刻は8時半を指している。相変わらず6号室のメンバーは出発時と変わりはない。だが窓の景色には大きく変化していた。

 

闇夜に動き出した列車は、一晩なうちにまっさらなキャンパスへと舞台を変えていた。

 

2連梯子を下り、窓の外の眺める。地平線まではるかに続く雪の草原に朝の光は差し込み、部屋にはレールの軋む音だけが響き渡っている。昨日のウラジオとはまた違った、自然の中の白い世界。その中心にいる自分に、優越感を感じずにはいられなかった。

 

 

 

ああ、これが私が長年夢見ていた世界。

夢見心地とはまさにこのことであった。

 

 

 

車窓を眺めながらコーヒーを飲み過ごす。こんな優雅な朝が7日間続くのだ。私は自身の計画に満足を覚えつつ、まだコーヒーを飲むには早いと再び上段へ戻り、眠りについた。

 

 

 

そしてこの瞬間、理想的な朝を過ごす最初で最後のチャンスは、道端に咲く花と共に雪の中に埋もれていった。

 

 

 

次に目を覚ました時には部屋の扉は開き、若い白人の男が立っていた。そしてしばらくしてこれまた若い女性と未就学児くらいの女の子が部屋に入ってきた。この3人が家族であると理解するのに、大して時間はかからなかった。

 

 

 

”ハロー”

 

 

 

ロシア語の挨拶を覚えていなかった私は、世界で一番有名なセリフで代用する。

 

 

 

 

 

返事が返ってくることはなかった。

 

冷たい風と共に嫌な予感が部屋に漂う。

 

シベリア鉄道の旅、1日目の朝のこと。

 

 

脱出計画

Day2:Vladivostok



まだかまだかと何度も時計を見る。分針はなかなか進まない。
心の中は期待が半分、不安が半分といったところか。



世界一周をこの街からスタートする意味。もしかしたら旅好きの人なら気づくかもしれない。ロシアはウラジオストク、この街はかの有名なシベリア鉄道の始発駅である。シベリア鉄道といえば全長9288mの世界で最も長い鉄道として知られており、約1週間かけてロシアを横断する。



世界を旅するようになってから、この列車に乗ることは私の夢の一つであった。計画を立てるときもこのルートを最優先に考えた。だけあってこの日は終始気持ちが落ち着かなかった。



宿に戻り、身支度を整える。出発までは7時間ほど残っていた。しかし私はこの日この宿の予約を取っていない。チェックアウトは11時だが100ルーブル払い手荷物を預けていた。ドミトリーやホステルでは荷物さえまとめればチェックアウト後も共有スペースに居てよいことが多い。もちろんそれは常識の範囲内での話だ。だが列車の出発時間は深夜0時半。眠りもしないのに宿を取るのももったいないし、大きな荷物を抱えて駅の待合室に数時間いるのも大変だ。私はできるだけ宿の共有スペースで粘ることにした。



私は小田さんと共に食事をし、ソファでくつろぎ、シャワーまで浴びる。近くにはホストもいて何度か目が合ったが、特に何も言われることはなかった。駅までの道のりは多く見積もっても20分ほど。23時半過ぎに宿を出れば十分だった。しかし、22時を回った頃、ホストは突然私の前に現れこう告げた。


”ユー・ペイ・マニー” 


恐れていた事態である。
私はすぐに出ていくと伝えたが、彼女は首を横に振る。ここで追加料金を払いたくはない。何とか免れようと私は英語で話そうとするが、彼女は聞く耳を持たない。すると隣にいた女性がホストは英語が話せないと私に教える。私は彼女にホストに考えを改めるよう説得してほしいと告げるが、通訳役の彼女は”ホストの言うことなので”と通訳を拒む。私はしぶしぶ彼女らにお金を払うと約束を交わした。

私を軽く睨みつけて去っていくホストと入れ替わりに小田さんがこちらへやってきた。彼自身はこの日もここで滞在するので問題はない。”俺も粘るつもりだったから厄介だな。” 小田さんは渋い表情を見せそう言った。何はともあれこうなってはもう共有スペースには居座れない。かといって残り1時間で1泊分の宿泊費を捻出するのももったいない。

そこで絞り出した私の選択は、ホストの目を盗み宿を抜け出すことだった。

玄関と共有スペースは直線上にあるが、荷物置き場から共有スペースは見えない。小さい方のバッグを小田さんに預け、タイミングを見計らう。そしてホストとその子分が玄関から目を離した隙にダッシュで靴を履き替えドアを開けた。階段を駆け下り、玄関の物陰に身を潜める。しばらくして小田さんが私のバッグを背にやってきたところで私の緊張は解けた。どうやらホストにはバレていない様子。無事脱出に成功した。小田さんに深々とお辞儀をし、宿を去る私。雪で見えなくなるまで小田さんは手を振っていてくれた。振り返るとこの日は最後まで小田さんにおんぶにだっこであった。未だ止まない雪は、彼への感謝を表すように街に降り注いだ。



ネオ・ロシア様式の駅舎の先に、白を纏った鋼鉄の列車が佇んでいた。

港の見える街

Day2:Vladivostok Russia





思い出を振り返る時、"1ヶ月前の今頃は…"なんて思うことがある。今朝窓の外を見た時も同じようなことを思った。昨日の今頃は目を覚ましてもいつもの部屋がそこにあったのに、今日は違う。

港から道路1本挟んだ高台にあるドミトリーからは、一晩で降り積もった白い雪が見える。吹き付ける吹雪は窓を割る勢いだ。

港、雪、丘。全てが普段目にすることの無い光景。
夢から醒めても私は夢の中にいた。



今日は朝10時に小田さんと約束をしている。せっかくだから一緒に街を回りませんかと昨晩誘ってくれたのだ。小田さんはカメラを何台か持ち外へ出る。私もGoPro7を従えカメラマンに続く。この日は念願のGoProデビュー。無知な私はフレームを持ってくるのを忘れてしまったため素手でGoProを持つ。これには2人とも苦笑いだ。



扉を開けると街は一面真っ白に染まっていた。一歩一歩前へ進むが、そのペースは昨夜の倍くらい遅い。たった一晩でここまで積もるのか。ロシアの冬が徐々に本性を現してきたようだった。



港で眠る無数のフェリーやクルーズ船達は真っ白に化粧をしている。全ての船に被せられた白いシートはより白の世界を私達に印象づけた。冬の景観を損なわないために所有者達が意図的に白いシートを被せているのだとしたらそれはまさにワンチームだ。港に沿って歩く我々"湾チーム"も、ウラジオの人達に負けじと吹雪の中声を掛け合い連携を取る。激しい高低差に加え、雪と凍った路面は容赦なく急造チームの足の体力を奪っていく。



適わぬ自然に文句を垂れる2人。しかしその言葉とは裏腹に私は心でワルツを踊っていた。せっかくロシアに行くのなら本場の厳しい冬を味わいたい。そんな風に思っていたから。

自然の前に人は無力である。

そんな言葉は雪となって私の肌に触れた。きっとこんな雪などこの国にしては序の口なのだろう。そう思うと更なる純白の世界に期待を抱いた。



中心地につくと遊園地が見える。当然観覧車やアトラクションは止まっていた。ウラジオの主要観光スポットは2つ。その内噴水広場と呼ばれる通りはこの遊園地にほど近い位置にあった。通りに面してかわいらしい建物が立ち並び、様々な店が出店している。中央は歩道になっていて坂を上るとシンボルの噴水越しに港が見えるのがこの通りの売りだ。生憎この日は吹雪が海までの視界を遮った。港町と雪は案外相性が悪いのかもしれない。



ちょうどその頃お昼時にさしかかったので、私達は近くのロシア料理店で昼食がてら暖を取る事に。昨日のうっ憤を晴らすように昼から麦酒で喉を潤す。酒の肴はピロシキとビリヌイ。初めてのロシア料理であったが思ったよりも我々日本人の口にあっていた。



味違いのビリヌイを交換し合う2人。小田さんの満足気な表情が皿の上に浮かぶ。

シェアという行為は2人以上いなければ成立しない。一人旅における最大の難点だ。だが案外奥が深い。お互いの持ち物を手に入れるだけでなく、同時に安心という副産物も得ることができる。思い出、情報、現在の心境、食べ物。シェアとは人の存在を身近に感じる1番の行為だ。恐らく小田さんに出会っていなければ、この先の旅も不安が付きまとっていたに違いない。人はやはりどこかで人を求めているのかもしれない。結局人は1人では生きれないのだ。





ロシア料理を平らげ目指すはもう1つの観光スポット、鷲の巣展望台。この展望台からは金角湾にかかる巨大な黄金橋とウラジオの街全体を見渡すことができる。標高約200mの高台まではロープウェイもかかっているが私達は徒歩で向かうことにした。店で温まった甲斐あって身体はすこぶる快調だ。



この日一番の斜面を歩く2人。この道中気づいたことがある。それはロシア人がみな徹底して右側通行しているということ。その傾向は顕著で、左側から前の人を追い抜くのではなく、歩道から車道に飛び出してまで右側歩く人も少なくなかった。昨晩のアルコール販売然り、ルールに従順な姿はお国柄をしっかりと反映しているようだ。まさにおそロシアである。



そんなことを考えているうちに展望台付近へとたどり着いた。頂上までの道のりは観光地とは思えないほど整備されていない。石段は高く積まれ、金網のフェンスはところどころ破られている。入場料もないのだからこのくらい当然かもしれない。というよりむしろ観光地として整備されたスポットより少しさびれた場所の方が人工感が薄れ、自然に近い感じがして個人的には好みである。



この日は天気のせいか、オフシーズンのためか、旅行客は私達の他に2組ほど。どちらも韓国人であった。ウラジオは韓国からも近く陸地続きのため韓国からの観光客が多い。駅周辺や噴水通りには時よりハングルが見受けられた。日本人にとっては穴場でも韓国人からしたらもっと身近なのかもしれない。



高台からの街は雪で見えづらいものの、私の中での満足感は天気をも凌いだ。貨物船やフェリーなど様々な船が港に停泊しているが、その中でも軍艦はひときわ大きな存在感を放っている。
それを覆い隠すように高くそびえたつ黄金橋は横浜ベイブリッジと同じくらいの規模。だが巨大な港やビル群を背景にたたずむ横浜に比べ、小さな港街に建てられた若干7歳の橋は他を圧倒する勢いでそこに佇んでいた。
広大な景色を眼下に唖然とする私。まるで全世界を制覇したような気分でいる。もちろんキリマンジャロの山頂やマチュピチュほど高くもないし、自然や歴史を感じられるスポットではない。だが、見慣れない世界にいるというだけで、それらを凌駕する達成感が私にはあった。今朝の感覚は間違っていない。私は今、夢の中で生きている。自分が自分にそう語り掛けた。



滑る石段をそっと降り、軍艦の居座る港、そしてウラジオストク駅を経由し宿へと戻る。港では雪がこの日一番強く吹き付けた。同時にこの日一番美女を見た。私と小田さんは街ゆくロシア人を嘗め回すように見て歩いていたが、美女が横を通り過ぎても追いつくことは出来なかった。ロシア人は歩く速度が早い。これもこの日気づいたことだ。美人を見てはしゃぐのに年齢差は関係ない。これは小田さんを見て気づいたことだ。



宿には17時頃着いた。クタクタに疲れた私達は各々自分の時間を過ごす。今日もホットシャワーは当然のように流れた。

今にもベッドで眠れるくらいの気分だが、この日私にはまだ重要な任務が残っている。



正確には日付が変わった0時半頃。
男の浪漫は足音をたて
この街に近づいていた。

このペースで書いてたら1年以上かかる

Day1:Vladivostok , Russia

 

 

 

私には過去2度の海外渡航で計8ヶ国を巡った経験がある。だがゼミ合宿や留学中に出会った人を除くと、日本人の旅人と出会ったのはたったの1度きりだった。だから日本人と会話する機会などほとんどないと考えていた。

 

 

 

-日本人ですか?-

 

 

 

それだけにこの一言、この出会いはとても嬉しかった。日本を出国したばかりでなければ抱きついていたかもしれない。

 

 


私を不安から解放してくれた彼の名前は小田さん(仮名)。一時帰国を経て昨日世界一周を再開させた本格派バックパッカーであった。予期せぬ出会いに人見知りはすっかり姿を晦まし、私達はすぐに打ち解けた。互いの旅のエピソードに始まり、小田さんのインド一周やローカルすぎるお祭りに参加した話で盛り上がる。ロシア語の飛び交うドミトリーで日本語が話せる安心感は計り知れない。荷物のことなどすっかり忘れ、私達は徒歩10分のところにあるスーパーへ向かうことにした。せっかくの出会いだから乾杯しようと誘ってくれたのだ。

 

 

 

意気揚々と寒空の下を歩く2人。だが私達は早速文化の違いを感じる羽目になる。酒を調達しに行った小田さんの手には空のカゴ。”買えなかった”とか細い声で言う。どうやらロシアでは22時以降のアルコール販売は法律で禁止されているらしい。時計の針はちょうど0を指している。前の男性は買えたが22時きっかりでシャットアウトされたとのこと。日本では24時間いつでも酒が手に入るだけにこの制度にはさすがに面を食らった。タイミングが悪かったね。そう言って仕方なくバニラ風味のコーラを買い帰路につく。アルコール類の規制は今日の寒空より厳しい。

 

 

 

玄関につくと階段でロシア人2人とすれ違う。彼らもここのゲストなのだろうか。そんなことを考えているとおもむろに握手を求めてきた。彼らにとってはごく普通のスキンシップ。だがエレベーターで乗り合わせても”おはようございます”の一言も交わさない国で生まれ育った私にとっては、こんなちょっとした光景もほほえましく感じる。

 

 

 

ダイニングに席を取り、買ってきたコーラで乾杯。小田さんはスーパーで買ったお惣菜を、私は日本から持ってきたおにぎりを食べる。母が朝握って渡してくれたおにぎり。私はまだこのありがたさを分かっていない。

食事を終えると順にシャワーを浴びる。この後旅中では何度もホットシャワーのないドミトリーに出くわすことになる。真冬に冷水を食らうこともしばしばあった。だがこの時はそのありがたみにも気づいていない。

 

 

 

当たり前は当たり前でなくなった時初めてそのありがたみに気づく。私は海外から帰国する度に自分の置かれている環境のありがたさを強く感じる。だがその感情はあっという間にリセットされ、ありがたみは当たり前に戻る。

毎日生きていることに感謝している人は少ないだろう。それは自身に生を失った経験がないからである。だから全ての物事に感謝しようとは言えない。ただ、

 

 

 

-失われて後悔してしまうような当たり前だけは、大切にしよう-

 

 

 

それがこの旅で得た最初の教訓であった。

 

この日のシャワーは温水だった。

 

 

 

 

 

シャワールームから出ると程なくして先程のロシア人が私たちをタバコに誘う。我々は2人ともタバコを吸わないがせっかく話しかけてくれたのだ。再び寒空の下へと繰り出した。彼は留学生。このドミを住処に数ヶ月ウラジオへ滞在するらしい。彼とは拙い英語を使い会話するが彼の英語もまた拙い。ロシア人の英語は日本人と同等だと思うと少し親近感が湧く。

 

会話の弾んだ私達に彼はバーで飲む提案をしてきた。向こうも親近感を感じていたのだと思うと嬉しかったが今日は初日、疲れていたのでやんわりと断る。ここでハッキリ断れないのが日本人の悪い癖だ。彼は察したように渋々諦める。おそらく"なんてノリの悪い旅人だ"と思ったことだろう。しかしウラジオでの観光は明日1日のみ。ウォッカで羽目を外し二日酔いになることだけは避けなくてはならなかった。

 

すると今度は春を買わないかと提案してきた。おそらくまだ寝るには早いと感じていたのだろう。値段は3000ルーブルポッキリ。美女大国として知られるロシアで色白の女性を抱くことは若い青年の夢であった。だが先は長い。この夢を初日に叶えるのはもったいない気がした私はこちらもやんわりと断る。思い返せば夜遊びを検討したのは初日にしてこれが最後だった。

 

 

 

小田さんと肩を落とすロシア人に挨拶をし、揺れるベッドの上段に身を投げる。

長い長い1日はようやく終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

私は今、花粉症と闘いながらこの記事を書いている。

 

あれから2ヶ月半。

 

今でもこの日のことを鮮明に覚えているのは

 

それだけこの日が

 

この旅が

 

待ち遠しかったから。

 

 

 

 

 

1日目の終わり、旅はまだ始まったばかりだ。

雪国のサバンナ

Day1 : Vladivostok , Russia





見慣れたシーンに早送りのボタンを押していた手は慌てて一時停止を押す。
どこか懐かしいようで、それなのに新鮮な光景。
その手は自然と再生ボタンへ伸び、映像はゆっくりと流れ始めた。







成田を出て2時間半。S7航空の機体は最初の目的地であるロシア・ウラジオストクへ着陸した。時刻は19時。意外にも日本より1時間早く進んでいる。



預けたバッグを手に取り到着ロビーへ進むと、ロシア語より先に聞こえてくるのは"Taxi"という聞き慣れた英語。だがその感覚は新鮮だった。
日本ではタクシーの運転手が自ら営業を掛けてくることはまずない。しかしその当たり前は海を越えない。大抵どの国でも到着ロビーではこうしてドライバーがお出迎えしてくれる。時には”ニーハオ”のオマケ付きで。
東南アジアを周遊した前回の一人旅から約1年ぶりの海外。本来鬱陶しいはずのこの光景も、この時ばかりは新鮮に思えた。



エスカレーター近くのATMに手数料のかからないマシンがあるとの情報を得ていた私はそのマシンからロシアルーブルを引き出す。5000ルーブル。日本円にして約8700円分だ。引き出したホカホカの現金を手にし、真っ先に向かうのはsimカード売り場。3週間過ごすロシアではさすがに電波が欲しい。しかしそこはお財布と相談。祈る思いで価格を見る。



-500ルーブルで3週間ネット使い放題-



気は確かか?そう言いたかったが、生憎私のロシア語リストにはプーチンゴルバチョフしかなかった。



先ほどから狭い空港内を歩き回っているが、ドライバーは文字通り金魚の糞のように私の後ろをついてくる。ここまで粘り強いのも珍しい。無論私にはタクシーに乗る予算など持ち合わせていないので、彼らを振り切るように外へ出た。久しぶりに見る白の世界。感動に浸る間もなく停留所を探し、バスとは名ばかりの乗り合いバンに乗り込む。通路を挟んだ隣には2人の日本人が座っている。飛行機でも前の座席に座っていた女子大生だ。荷物が当たらないようお互いに気を使う。なんとも日本人らしい光景である。日本を出てすぐということもあり私は未だに人見知りモード。"どのくらい滞在されるんですか?"という言葉はおそらく入国審査で没収されたのだろう。



ほどなくしてバスはウラジオストク駅へ着いた。”2時間半で行けるヨーロッパ”のキャッチフレーズで知られる街、ウラジオストク。最近では羽田からの直行便就航もありますます脚光を浴びている。

そんな人口60万人の港町はロシアでは南部に位置するとはいえ緯度は北海道と変わらない。ひどい末端冷え性の私はロシア入国を決めてから寒さ対策には抜かりがなかった。ユニクロのウルトラライトダウンを筆頭に、最近流行りのワークマンでこれでもかと防寒グッズを買い込んだ。その甲斐あって今のところ寒さはみじんも感じない。もう吉幾三に足を向けて寝られないな。そんなことを思いながら凍った坂道を慎重に登った。

駅から宿までは飲食店やスーパーが少しあるだけで人通りも少ない。広がる未来など微塵も感じられぬまま目的地と思しきに建物の前についた。だが看板が見当たらない。もしや1本奥の道か、と慌てる私。坂の多いこの港町では道を1本間違うだけでとてつもない回り道になる。既に悲鳴をあげている肩にこれ以上負担はかけられない。直感で唯一鍵のかかっていない敷地に入り様子を伺う。建物内に入ると受付らしきものは見当たるが、誰もいない。宿ではなかったか。そう思い振り返るとそこには真冬にしてはどう考えてもラフすぎる格好の女性が立っていた。彼女を見た私はここが宿であることを確信し、真っ先に25kgの重荷を下ろす。肩と脚は今にも泣きだしそうだ。チェックインを旨を伝えると彼女はドミトリールームから別の女性を連れてきた。こちらが本物のホストのようだ。



大した活動はしていないのに酷く疲れている。多少のブランクを考慮に入れつつも、この先の旅に一抹の不安を覚えた。そんな私にさらに追い打ちをかけるように更なる不安が襲う。



バゲージルームのあるドミを選んだはずなのに、案内されたのはただの通路。シャワールームの前に設けられた狭いスペースに数多のバックパックが置かれている。"監視カメラがあるから平気よ"とジェスチャーで伝えるホスト。その横を何人ものゲストが通ってゆく。”いつ盗まれてもおかしくは無い” 貴重品だけベッドへ移しつつ、この状況に不安を感じていると1人の男性がこちらを凝視していることに気づく。



すこぶる目の悪い私は相手に向かって鋭い眼光を向ける。まるで獲物を奪い合うサバンナのような空間。しかし先手を打った彼から出た言葉は意外なものであった。