My Lost Dream

13ヶ国18都市を駆け抜けた2ヶ月間のお話。

外出自粛生活

 

Day4:Siberia 

 

 

 

5月14日、前回更新から1月以上が経過している。桃色の街並みが緑色に移りゆく間に、私たちの生活も大きく変わった。新型コロナウイルスの感染が拡大し、ついに外出すらできない世界になってしまった。街からは人が消え、賑わいを見せていた大衆居酒屋はシャッターが閉まっている。私も影響を受けていないわけではなく、この春から晴れて社会人となったというのにまだ一度も出社できていない。いわゆるテレワークというやつだ。

 

 

テレワークとは非常に快適な制度である。朝はゆっくり起きれるし、満員電車に揺られることもない。一番の利点は深酒ができることだろう。だが外出禁止ともなると話は別だ。行動は制限され、時間を持て余す日々が続いている。暇すぎてストレスを感じる人も多いだろう。 

 

 

現状私もその1人である。だが思い返せばつい5か月前にも同じシチュエーションを経験していた。今よりももっと過酷で理不尽な日々だった。

 

 

 

 

-結局あれ以降家族とはあまり話すことができなかった。こちらがGoogle翻訳で質問しても、彼らのロシア語での返事を理解してあげることができなかったのだ。一方通行の会話。私は気まずさに耐え切れず一目散にベッドへ退散した。列車と共に再び静寂な時間が走り出した。

  

 

 

私の乗る2等車には扉がついており、個室のようになっている。日中は扉を開け、夜間は遮音のため扉を閉めるコンパートメントが大半である。だが私のコンパートメントは階下のご家族により常時閉じられていた。3畳ほどの狭い空間、当然空気は薄くなる。外でいくら雪が降ろうが氷点下を下回ろうが、部屋は汗をかきそうなくらい暑い。「扉開けてもいい?」何度もそう聞こうと思ったが、その度に先ほどのロシア語攻めが頭をよぎった。

 

 

 

葛藤すること2時間、何とかひねり出した解決策はトイレであった。部屋を出る際さりげなく開けっぱなしにする。これで最低限の換気は可能だ。そう考えすぐに実行へ移した。5分後、部屋に戻ると当然のように扉は閉まっていた。階下のご家族は何としても扉を閉めたいらしい。さらに扉を開けるとそこには真っ暗な部屋が待っていた。どうやらこのわずかな時間で光まで失ってしまったらしい。読書灯は各ベッドに備えられているが部屋の電気のスイッチは下段の壁にある。私は部屋の扉どころか電気の主導権もロシア人に掌握されていた。

 

 

 

暗く狭く熱い部屋でただ時間が流れるのを待つ生活。先のことを思うと不安が頭を締め付けた。

 

 

 

翌朝、汗だくの裸体がベッドの上段に横たわっている。いくら室内とはいえここは冬のロシア。上裸で寝ることになろうとは夢にも思わなかった。

 

2日目の今日も扉は閉まっている。ここまで徹底された密閉にはさすがの小池百合子氏も全裸で発狂する。梯子を下りると階下のご家族は優雅に昼食をとっていた。車窓に移る父の涼しげな表情は、まさに私たちの温度差を表しているよう。私は歯磨きセットを手に部屋を出る。おはようのあいさつはない。廊下から見える外は相変わらず雪の世界。見飽きた雪景色を新鮮に感じるのが皮肉のように思えた。歯を磨き汗を拭くと、一呼吸おき部屋の前まで戻る。

 

 

 

おそらくこの列車の扉は乗客の心と連動している。期待に胸躍らせていた初日の扉はもっと軽かったはずだ。今はその倍くらい重い。力を振り絞りなんとか扉を開ける。気まずいので家族の方は見ないよう梯子に手をかけるが、ふと窓側に視線を送ると父と目が合った。そして彼は間髪入れずに私を手招きする。昨日と全く同じ光景、時が戻されたのかと思った。

 

 

 

誘われた手前断れないのが日本人の悪いところ。空いている父の隣に座る。扉関係でギスギスしていると思ったがどうやらそれは私だけ。いい意味で無神経というか、、まあ残り6日間を同じ部屋で過ごす一家と冷戦状態になるくらいなら、このくらい無神経な方が有難いのかもしれない。そんな風に思っていると、父はテーブルに置かれたタッパーを開け、中に入っていたサラミを食パンに1枚載せた。そして私にパンを手渡し、もっと乗せろというジェスチャーを私にしてみせる。私は戸惑いつつ2枚追加で載せ、家族と共にパンをほおばった。

 

 

美味しかった。ただひたすらに美味しかった。味は日本のスーパーで買うサラミと大して変わらないのだが、それ以上に美味しいと感じたのはおそらく、この優しさが調味料となったからであろう。綺麗事に聞こえるのも無理もない。だがこの時の私は心の底からそう思った。

 

 

言葉も通じない日本人を食事に招き、数少ない食料を分け与えてくれる純粋な優しさ。簡単なように聞こえるが逆の立場を考えると容易くはないことが分かる。一方の私は初めから相部屋で過ごすことを分かっていながら、他人のことなど考えもせず自分の食料だけを蓄え、コミュニケーションを取ることすら諦めかけていた。それどころか扉のことで階下のご家族のことを強調性のない無神経野郎とすら思っていた。たかがパン1枚、されどパン1枚。サラミパンによって家族の優しさを味わされた。そして同時に自身の心の狭さを深く恥じた。

 

 

せめて感謝を伝えたい。そう思った私はポケットからスマホを取り出す。実は昨夜、電波が通った一瞬のタイミングでGoogle翻訳のロシア語をオフライン保存し、さらにキリル文字のキーボードもダウンロードしていた。次こそは会話を成立させたい、わずかながら家族と仲良くしたいという想いが残っていたのだ。

 

私が質問を書き込み、ロシア語翻訳する。家族に画面を見せ、キリル文字のキーボードに設定を変え、打ち込んでもらう。それを日本語へ翻訳する。

この一連の動作が、家族と意思疎通を図る唯一の方法であった。時間はかかるがこの方法により、我々は初めてお互いの情報を共有することができた。

 

 

 

小一時間彼らとコミュニケーションを取り、得た家族の情報は、

・名前は父がカーシャ、母がスーシャ、娘がコーリャ。

・父はロシア軍の軍隊さんである。(部隊は忘れたがスペツナズではないらしい)

・休暇を家族と過ごすために母と娘と共に、祖父母の暮らすモスクワへ向かう。

・長い兵役のため家族に会うのは久しぶり。

 

ということだった。他にも私の旅の話や互いの国の印象など、私は彼らとの初めての会話を大いに楽しんだ。お互い無言で画面を見せ合うのは無機質にも思えるが、何とも言えない和やかな空間がそこには確かにあった。

 

 

去り際、食事のお礼にと日本から持ち込んだ抹茶味のキットカットを3つバックパックから取り出し家族へと渡す。私が分け与えられる唯一の食料であった。チョコは暑さで溶けていた。

 

 

 

扉のことは敢えて話さなかった。もちろん眠れないほどの暑さは耐え難いが、久しぶりの一家団欒を私が壊してはいけない気がした。溶けたキットカットで気づいてくれればというわずかな希望の光は、娘の胃の中へと消えた。だがもうイラつくことはない。私はここで家族と共に生きていくと決めたのだ。1つの狭い部屋を異なる文化を持った家族と共有する、時には我慢や支えあいも必要だ。その我慢が暑さなら甘んじて受け入れよう。そう心に決めたのだ。

 

 

 

-ステイホーム-

 

現在の自粛生活は、あの日々に比べたらなんてことない。同じ言語を話す家族、内容の分かるテレビ、自由につながるネット。これだけあれば十分恵まれている。そう感じるのは紛れもなく、シベリア鉄道異質な空間での経験があったからこそである。

 

それでも少し、あの部屋が、あの日々が恋しく思えるのは

孤独の中に差し込む無償の優しさが

他の何にも代えられぬ大切な感情を生み出してくれたから。

 

 

そしてこの後発覚した家族の秘密により、

私はさらに胸打たれることとなる。

 

 

 

今日も列車は絶えず進んでいた。