期待と不安
Day3:Siberia
ホームに出ては再び待合室へ戻る。もう3回ほど繰り返しただろうか。
扉の空いた列車に出会えたのは、日付を超えた頃だった。ホームへと続く階段を降りると、各車両の前に車掌が待ち構えている。プリントアウトしたチケットとパスポートを見せると、10号車への乗車が認められる。”スパシーバ”。覚えたてのロシア語と共に車両へ乗り込む。
今回乗るのは2等車、扉付きの4人用コンパートメントだ。幸い部屋にはまだ誰もいない。私は右の上段のベッド。他の乗客が乗り込んでくる前に、シーツや枕カバーをセットし、荷物を棚に押し込む。部屋にはコンセントが2つしかないのでこちらも確保。オセロで角を取った時のような安心を感じた。
そうしているうちにふと窓の外を見ると、景色は左から右へ流れ始めていた。出発のシーンはGoproに収めようと思っていたのだが、プリウスにも匹敵する静かな蹴りだしに私が気づくことができなかった。
走り出してからしばらく経っても、別の乗客が部屋に入ってくることはない。どうやらウラジオからは僕1人のようだ。寂しい気もするが、いずれ徐々に増えてくるのだろう。とりあえず今は快適な居住環境を整えることが優先だ。部屋着に着替え、食料や生活必需品を取り出しやすい位置に置き直す。
シベリア鉄道は約1週間かけてウラジオストク-モスクワ間を横断する世界最長の寝台列車。もちろんノンストップではなく、大都市から田舎町まで大小さまざまな駅で途中停車する。中にはイルクーツクやハバロフスクといった街で途中下車し、観光する旅人も多い。
しかし私は、ウラジオからモスクワまで7日間途中下車無しの列車旅をすることに決めた。おそらく数日間インターバルを取ると、再び乗車する気にならないだろう。そう感じたから7日間の修行生活に覚悟を決めた。
まだ出発から30分ほどだが、既に電波はない。おとなしく自分のスペースに身を戻し、横になる。一体どんな人と旅を共にするのだろうか。性別も年齢も国籍、いつ乗ってくるのかも、そもそも乗ってくるかもわからない。期待と不安からか、疲れているはずなのになかなか眠れない。結局深い眠りに落ちるまでに何度か駅に泊まったが、この晩は相部屋になる乗客が乗ってくることはなかった。
翌朝、カーテンから漏れる微かな朝日で目が覚めた。時刻は8時半を指している。相変わらず6号室のメンバーは出発時と変わりはない。だが窓の景色には大きく変化していた。
闇夜に動き出した列車は、一晩なうちにまっさらなキャンパスへと舞台を変えていた。
2連梯子を下り、窓の外の眺める。地平線まではるかに続く雪の草原に朝の光は差し込み、部屋にはレールの軋む音だけが響き渡っている。昨日のウラジオとはまた違った、自然の中の白い世界。その中心にいる自分に、優越感を感じずにはいられなかった。
ああ、これが私が長年夢見ていた世界。
夢見心地とはまさにこのことであった。
車窓を眺めながらコーヒーを飲み過ごす。こんな優雅な朝が7日間続くのだ。私は自身の計画に満足を覚えつつ、まだコーヒーを飲むには早いと再び上段へ戻り、眠りについた。
そしてこの瞬間、理想的な朝を過ごす最初で最後のチャンスは、道端に咲く花と共に雪の中に埋もれていった。
次に目を覚ました時には部屋の扉は開き、若い白人の男が立っていた。そしてしばらくしてこれまた若い女性と未就学児くらいの女の子が部屋に入ってきた。この3人が家族であると理解するのに、大して時間はかからなかった。
”ハロー”
ロシア語の挨拶を覚えていなかった私は、世界で一番有名なセリフで代用する。
返事が返ってくることはなかった。
冷たい風と共に嫌な予感が部屋に漂う。
シベリア鉄道の旅、1日目の朝のこと。